『セッション』レビュー これは音楽映画ではなく、戦争映画だ

漫画『BLUE GIANT』を読んでから、にわかジャズファンになってしまったので、ここ最近ジャズを聴き漁ったり、ジャズに関した映画を観たりしている。

ジャズ映画の中でも『セッション』(原題: Whiplash)が素晴らしかったので、紹介したい。

『セッション』基本情報

監督 デミアン・チャゼル
脚本 デミアン・チャゼル
出演 マイルズ・テラー(アンドリュー・ニーマン)
J・K・シモンズ(テレンス・フレッチャー)
メモ 第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、J・K・シモンズの助演男優賞、編集賞、録音賞を受賞。

『セッション』レビュー(ネタバレ含む)

ストーリーはとてもシンプルだ。

ジャズドラマーになることを夢見る19歳のアンドリュー・ニーマン、そして彼が通うシェイファー音楽学校の最高の指揮者テレンス・フレッチャーの師弟関係の物語。

ほかの登場人物もいるし、サイドストーリーらしきものもあるが、物語の大半はこの2人のみに焦点が当たられて進んでいく。

そういった意味ではとてもわかりやすい話だし、観客は安心して物語を追える。けれど、別の見方をすると、観客は2人の息苦しい人間関係から逃げることができないという側面もある。そういった意味でも余計な要素を極限にまで削ぎ落とした演出は成功していると言える。

鬼教官フレッチャー

2人の師弟関係は、フレッチャーが音楽学校の初等教室でニーマンが演奏するのを見かけたところ始まる。

フレッチャーはニーマンの才能に注目し、彼を自分のバンドの練習に呼ぶようになる。

ただでさえ顔が恐ろしいフレッチャーだったが、自分のバンドで指揮を振るシーンでその恐ろしさを遺憾なく発揮する。

まずはフレッチャーが練習会場に現れただけでその場の空気が一変する。そして、極度に完璧な演奏を求めるフレッチャーは、ちょっとしたチューニングのズレをこれでもかと執拗かつ嫌味っぽく追い詰めたり、怒鳴ったり、椅子を投げたり、怒鳴ったりと傍若無人ぶりを観客に見せ付ける。

そこには飴と鞭やコーチング、褒めて伸ばすなどの甘っちょろい教育論が首を挟む隙間など全くない。あるのは、罵倒と嫌味と暴力のみだ。罵倒と嫌味と暴力にを乗り越えて、音を奏でる者をフレッチャーは待っているのだ。

そんな彼にとって「音楽を指導する」「バンドで指揮を振るう」というのは「演奏者との戦争」なのだ。命をかけた殺し合いなのだ。

ただ、その戦争においては、あまりにもフレッチャーが強すぎた。

機関銃でバンバン撃ちまくる彼に対して、演奏者はせいぜいエアガンでスカスカ撃ち返す程度にしか反撃ができない。

狂気の主人公ニーマン

そんなフレッチャーの前に現れたのが主人公のニーマンだ。

フレッチャーのバンドの練習に参加するようになったニーマンだったが、最初は楽譜めくりしかさせてもらえない。そのうち腕を認められ、メインドラマーへと格上げされる。ニーマンは文字通り地の滲む努力を続けたり、せっかく自分から告白して付き合い始めた彼女(ニコル)にも別れを告げ、ドラムに没頭していく。

コンペティション当日、メインドラマーとしてステージに立つ予定だったニーマンは、本番直前にドラムスティックを忘れてきたことに気づく(ニーマンは楽譜をなくしたり、スティックをなくしたりと映画の中で重要な場面でわりとどうでもいいミスを起こす)。

慌ててドラムスティックを取りに行くニーマンだが、会場へと向かう途中でトラックと交通事故を起こしてしまう。それでも、血だらけになりながらもドラムセットの前に座り、演奏をスタートさせる。だが、当然傷ついた体で演奏などできるわけがなく、フレッチャーから「お前は終わりだ」と冷酷に告げられてしまう。

その言葉に怒り狂ったニーマンはステージ上でフレッチャーに殴りかかる。

ニーマンの練習、ドラマーとしての成功への執着、自負心の強さには狂気が感じられる(おそらくニーマンを演じマイルズ・テラーが一見すると内向的で何をしでかすかわからない外見をしていることも関係しているだろう)。

最初はフレッチャーに打ちのめされてばかりのニーマンだったが、次第にその狂気が武器となり、フレッチャーと対等に音楽という戦争を繰り広げるようになるのだ。

戦った者同士だけが、共有できる境地

この映画の宣伝で盛んに言われていたことは、ラストシーンの素晴らしさだ。たしかに他の映画では経験したことのないシーンで、ジャズについてあまり専門的なことを知らない僕でも、ジャズの、音楽の素晴らしさを体感することができた。

そのラストシーンへと続くストーリーを追っていこう。

ステージでフレッチャーを殴ってしまったニーマンは、音楽学校を退学になる。その際、弁護士にフレッチャーから過去に受けた仕打ちを告白する。結果としてフレッチャーは音楽学校を辞めさせられることになる。

数ヶ月後、ニーマンは偶然ジャズクラブで演奏するフレッチャーに出会う。そこでフレッチャーから彼の音楽に対する本音(情熱)を聞く。フレッチャーの話の中にあった、才能がある者にとって「危険なのは、上出来(グッジョブ)という言葉だ」というのは、全てに通じる格言だと思う。才能を持ちつつ、何かを成し遂げる者は「まだ不十分だ」と自身に高い壁を突きつけながら、それを超えてきた者だ。

フレッチャーの言葉に動かされたニーマンは、彼の誘いJVC音楽祭(スカウトマン達が集まり、そこでの成否がその後のミュージシャン人生を大きく左右する)にドラマーとして出演することを決める。

そして、音楽祭当日。

なんとフレッチャーはニーマンにだけ異なる演目を伝えていた。フレッチャーは自分の指導を学校側に暴露することで自身を退職へと追い込んでいたニーマンを憎み、彼を陥れようと巧妙な罠を仕組んでいたのだ。

ジャズクラブでの偶然の再会から、再び共にステージに上り、最後は大団円、という流れを予想していた僕は、フレッチャーの企みにかなり面食らいつつ、「これでこそ鬼教官!」と膝を打った。

ニーマンは知らない曲も懸命に演奏しようとするが、当然周りの演奏とは合わない。失望の中ステージを降りた彼を、父親は慰めの言葉とともに抱き締める。ニーマンにとってこの慰めの言葉はフレッチャーから聞いた「上出来だという危険な言葉」に聞こえたのではないだろうか。

ニーマンはステージに戻り、スローテンポの曲を始めようとしていたフレッチャーに逆らって、いきなり腹に響くような強烈なドラムソロを始める。当然周囲は唖然とするが、ニーマンは「合図する」とだけ告げて周囲を無視しながらドラムを叩き続ける。

そして、ニーマンの演奏にバンドが応え始める。バンドだけではない。ニーマンの圧倒的で情熱的なドラムが引っ張る演奏にフレッチャーも影響を受け始める。管楽器とドラムの応酬を指揮するフレッチャーの姿は躍動感があり、なによりもとても楽しそうだ。

曲が終わっても、ニーマンはドラムソロを止めない。

叩いて叩いて叩きまくる。リズムが合っているのかもよくわからないし、良い演奏なのかもわからない。ただ叩く。叩く。とにかく叩く。

フレッチャーはバンド全体を指揮する手を止め、ニーマンに近寄り、彼の演奏だけを指揮する。2人には音楽祭もバンドも観客も、周囲の者は何も見えていなかった。

ここでもまだ戦争は続いている。

でも、それは武器で相手を傷つけたり、言葉や策略で相手を陥れようとするような戦争ではない。

音楽という戦場で、高いレベルで魂と魂をぶつけ合う戦争だ。

 

そして、倒れそうになったシンバルをフレッチャーが支え、ニーマンの演奏を最後まで見守るという演出。これがこの映画のクライマックスだろう。僕はこの場面で思わず涙してしまった。

この場面において、命を削って戦ってきた者同士だけがたどり着け、理解し合える境地に2人は達しているように見えた。

最後、終わりを迎えたドラムソロの後、溜めに溜めまくった管楽器のハーモニーで演奏はようやく終りを迎え、映画もあっさりと幕を閉じる。

観客は、バンドは、フレッチャーは、ニーマンの演奏を同評価したのか、ニーマンとフレッチャーのその後の師弟関係はどうなったのか。気になることが残っていないわけではないけれど、『セッション』という映画はこの終わり方で良いのだ。

観客が納得する答えを提示する必要などない。

ただ、素晴らしい演奏があり、それが終わった。それだけで十分なのだ。

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