教育の生産性の低さを今すぐどうにかしなきゃいけない①

ある日、ちきりん(@InsideCHIKIRINさんがTwitterでこんなことを書かれていた。

興味がある話題だったので、こんな感じでリツイートしてみた。

そしたら、なんとまたちきりんさんがリツイートしてくれた!

ちきりんさんのおかげで、微々たるフォロワーしかない僕のツイートをたくさんの人に見てもらうことができ、反応もいっぱいいただくことができた。
本当にありがたかったし、いただいた意見もとても勉強になった。
ただ、Twitterだけでは書ききれなかったところがいっぱいあったので、この機会にブログにまとめておこうと思う。

 

まず、僕は日本の教育はもっと生産性を上げないと本当にまずいと思っている。

 

大前提として、教育は国の施策として最も大切にすべきものの1つだ。

教育は子どもへの投資だからだ。

子どもへの投資は未来への投資だからだ。

未来への投資の生産性が低ければ、言うまでもなくまずい。

でも、残念ながら現状では、民間企業の生産性の話がされることは多いけど、教育現場の生産性が真剣に議論されることってなかなかないよなーと思う(ただ単に僕が知らないだけかもしれないけど)。

 

こんなことを考えるようになった1つのきっかけが、子どもの小学校への入学だ。

学校現場は僕が小学生の頃と何にも変わってない

教育現場の現状というのは、学校ごとで当然異なる。

だから、ここから書くことは、「全ての学校がこんな感じで困っている!由々しき事態だ!ってことを伝えるため」ではなく、あくまでも「僕が教育現場の生産性について考えることになったきっかけを伝えるため」の内容だと思ってほしい。

 

僕には双子の子どもがいるのだけれど、彼らはこの春に小学生になった。

ピカピカの小学1年生だ。

同時に僕も小学生の親1年生の生活がスタートしたのだけれど、そこで感じたのが「なんだこれ…。自分が小学生だった頃と全然変わってないじゃん…」ということだ。

僕が小学生だったのはもう30年くらい前のことだ。

勿論、変わらない良さもあることは事実なのだけれど、残念ながら「この時代にまだそんなことやってるの…」と思ってしまうことが少なからずあった。

授業準備って先生1人1人がする意味あるの?

参観日に行った時のことだ。

我が家の双子は別々のクラスに通っているので、僕は授業をハシゴしなければならなかった。

その時の授業は道徳だった。

双子のクラスでは両方ともほぼ同じ内容の授業だったのに、担任先生は黒板に貼る模造紙や動物をかたどったペープサートを自分達で用意していた。

試しに自分の子どものクラス以外の授業も見てみたけれど、やっぱり同じ内容を取り扱ったのに、授業準備はそれぞれがやっているようだった。

先生が各自で授業準備をしたから内容に違いや個性があったかというと、そうではなく、授業資材は違っているのに、授業内容や流れはほぼ一緒だった。

学校の先生方に、自分が担当する授業の準備はそれぞれが自分自身で行うべきという縛りのようなものがあれば別だけど、「授業の準備は誰か1人がしたものを皆で共有する」とかそういうこともできるんじゃないかな、と思った。

参観日だからというのもあるのかもしれないけれど、僕にはそれぞれの先生がかなり手の込んだ資材を用意していることがとても無駄なことのように感じられてしまったのだ。

先生オリジナルの宿題って本当に意味あるの?

まだ小学校1年生なのでたいした量じゃないけれど、双子達は毎日宿題をやっている。

日記だったり、音読だったり、計算プリントだったりするのだけれど、そこで使われている教材もクラスによってバラバラだ。

各担任の教育方針やクラス状況が反映されたうえで宿題がバラバラならまだ納得がいくのだけれど、内容はほぼ同じなのに別々のフォーマットを使っているのだ。

やっぱりどうしてもここにも無駄を感じてしまう。

学校の先生達は協力や業務の分担をしないのだろうか。それとも本当はしたいのに、してはいけないと決められているのだろうか。

え?まだプリントでお知らせ?

担任の先生はほぼ毎日クラスの通信みたいなものをプリントで作って配ってくれる。

勿論紙だ。

我が家では毎日2クラス分のお知らせが届くので、かさばって困っている。

クラス通信をもらえるのはありがたいのだけれど、アプリで配信とかメールに添付とかできないものだろうか

貴重な先生方のリソースが、紙を生徒分印刷したり、さらにそれを配布したり、休んだ生徒分が行き渡るように考慮したり、ということに使われてしまうと思うと、目眩がする。

当然紙からデータ配信にすると「うちは携帯持ってません!」「スマホじゃなくてガラケーです!アプリは見れません!」「アプリのダウンロードができません!そもそもダウンロードってなんですか?」といった保護者の悲痛な叫びも届くのだろうけれど、個人的には全て無視してしまって良いと思う

なぜなら、そういったクレームと同じくらい「うちの子はそんなお便り持ってきていません」というクレームもありそうだからだ(完全に僕の勘だけれど)。

だから、どうせ何をやっても文句が言う人がいるのであれば、より簡単で未来に向けて正しい方法を選択すれば良いと思う。

一度妻と笑ってしまったのが、「今日配布した紙のお知らせの内容が間違っていました」というメールが学校から届いた時だ。

「これだったら、最初からお知らせを紙じゃなくてメールで送ってくれればいいのにね」と妻と脱力してしまった。

学校への要求が多様化している

次に書きたいのは、今の小学校が昔と何も変わっていないという話じゃなくて、むしろ昔よりも大変になったんだろうな、という点だ。

「そんなことほっとけばいいのに」というような些細なことをいちいち先生に言う親が増えているように感じる。

例えば、学校でのただのじゃれ合いを大袈裟にイジメだと担任に訴える親もいれば、運動会の場所取りの開始時間やルールについてまで運営に口を出す親もいる。

「親が先生に要求した席順にならなかった」というだけで、担任の変更を求めて教育委員会に駆け込んだ親の話を聞いた時にはちょっとびっくりした。担任の先生も放課後に毎日その親を訪問して理由を説明していたようで「学校の先生も本当に大変だな」と思ったものだ。

なんでそんなふうになってしまっているのか、理由はよくわからない。

少子化で親が過保護になったのかもしれないし、親が口を出さなければいけないほど学校の先生のレベルが落ちているのかもしれない。同じように親のレベルも落ちているのかもしれない。

いずれにせよ、僕が小学生の頃は、まだ『先生=神様』みたいな雰囲気があって、先生が言うことは絶対だった。体罰を受けたこともあったけれど、それについて文句を言う親など1人もいなかったし、僕達子どもも「まあ、自分達が悪かったよね」と苦笑いを交わすだけだった。

おそらく昔に比べて教育現場に求められていることも多様化しているのだろう。

社会が多様化しているのだから当然と言えば当然だけれど、それに対応しなきゃいけない先生達は本当に大変だと思う。

いろいろ書いたけれど、学校の先生って素晴らしいと思う

ここまで我が家の双子が小学校生活の中で見聞きしたこと、感じたことをつらつらと書いてきたけれど、僕は基本的には学校の先生は素晴らしい職業だと思う。

実際、我が子達の担任の先生のことも尊敬している。

小学校1年生という大変な子供達だけを集めたクラスを一定の秩序をもって運営するのには大変な苦労があると思うし、その毅然とした態度も時には子供と一緒になって無邪気になって遊んでくれるところもただただ感嘆して見ている。

 

でも、これから襟を正して真剣に考えなきゃいけないのは、日本中の産業を平等に襲う労働人口の減少という逃げ場のない事態だ。

勿論労働人口の減少は教育の現場にも訪れる

ICTやAIの利活用で、労働人口の減少を補完できる可能性もあるけれど、今のところ教育の現場でそれらの成功例はまだ聞いたことがない。

少なくとも我が家の双子が通っている学校では、ICTの匂いはまだ全然感じない。

上にも書いたけれど、教育は国の施策として最も大切にすべきものの1つだ。

教育は子どもへの投資だからだ。

子どもへの投資は未来への投資だからだ。

だから、教育の現場に立つ人達にはもっともっと生産性の高い働き方をしてほしい。

せっかく素晴らしい能力を持っている人達なのだから、そのリソースの使い方にはもっと頭を捻るべきだと思う。

その結果として、時間や空間に余裕ができるのであれば、それらを子ども達1人1人のケアへと向けてほしいと思う。

子ども達は僕たち大人が経験したことのない多様な未来を生きることになるからだ。

生産性が低い労働現場には疲弊感が蔓延しているし、給与も満足な上昇は描けない。

このまま生産性が低い働き方が続けば、教育の現場に優秀な人は入ってこなくなってしまうのではないだろうか。

それは子ども達にとって残念なことだし、日本の未来にとっても危惧すべき事態だ。

教育には「子ども達のために働きたい」という人材にも当然参加して欲しいけれど、ある程度良い条件下で優秀な人にも働いてほしいな、と思う。

 

じゃあ、実際に教育の現場をどうしていくべきなのかは次回のエントリーで書いてみたいと思う。

 

あー、長文書いたから疲れたー。

基本的には書きたいことは何もないんだけどなー。

 

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